いま、生きている今日がSF的世界だと空想する試み
『 これほど人が、自らの内にある規則にがんじがらめになった時代ははじめてです。これほど明文化されていない決まりが増えたのは、人類史上はじめてです。 』
(”ハーモニー” 著:伊藤計劃)
先日、出かける前にこの辺の記事をざっくり読んでおりました。
・ 2014年、おおらかさと思慮深さの年に。 - デマこいてんじゃねえ!
・ バカにされているのは、「グリーン車」のtweetではなくて、僕やあなたの「良心」なのです。 - いつか電池がきれるまで
そしたら急に (彼らが危惧しているような何かが昨年あたりから目立ちはじめ、今後実際に大きな問題になっていくと仮定すると) 私たちの生活は今まさに ”ハーモニー” で伊藤計劃が描いた世界へ向かって歩いてるんだか駆けてるんだかの真っ最中なんじゃないかと思い立ち、ちょっとテンション上がっちゃったりして、特に嬉しい用事でもないのに若干浮足立って出かけました。
それからぼんやりと ”ハーモニー” と御冷ミァハと思いやり社会について思いを馳せながら電車に乗っていて、降りた先で目にしたのが冒頭に載せた張り紙です。
「マナーから、ルールへ。そしてマナーへ」
多分、はじめて神の啓示を受けた (事実はどうあれ) 預言者とか神の代弁者はきっとこんな気分だったろう、というような気分になりました。浮かれ上がりました。
これこそ正に今、私たちが ”ハーモニー” の世界へ向かっている証左に他ならない、と。
拳を振り上げて快哉を叫んだはいいんですが私はすっかりそこで満足してしまいました。しかも振り上げた拳をどこへ向けて振り下ろすつもりもないため、なんとなく 「SF世界来たわぁ」 などと浮かれているだけで、この後に続く話はとくにありません。
- 作者: 伊藤計劃
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/12/08
- メディア: 文庫
- 購入: 28人 クリック: 406回
- この商品を含むブログ (254件) を見る
蛇足ですが、 「マナーを守れないならルールにする」 というのは当然の成り行きだと思います。
というか私だってそうする。自分の信じるマナーを破られ続けたらそうする。当然だ。
ただし、そうなるといずれはマナーの規定する範囲がどんどん拡大していって、マナーをルールに置き換える前の段階の手続きをすっ飛ばしてマナーがルールと同義になり、結果がんじがらめの思いやり社会に到達する……というのは、あながち妄想でも無いんじゃないでしょうか。
じゃあどうすればいいか、というのは結局のところ 「マナーを大切にする」 みたいな所に戻ってきてしまい、そうなると訪れる結果には大した違いが無いからどうしたって私たちはいずれ抗えず思いやり社会*1に突入してしまうのではないか、とか思うと、何だかワクワクします。
更に付け加えると、 「彼らが危惧しているような何かが昨年あたりから目立ちはじめ、今後実際に大きな問題になっていくと仮定すると」 なんていう妙な言い方をしましたが、確かに昨年のネットの一部の炎上事件からの、執拗に正義を求めるフルボッコ大会みたいな流れは確かに何か異常だとは思います。
そこに一種の危機感みたいなものを感じはするのですが、でもまずどこに違和感があるのかをはっきりと言うことはできないので (多分私が当事者ではないから) まずそもそも何を問題視すればいいのか、が不明で、あんな感じの言い方になりました。
今起こっている (と思われる) 何かに対して、そんなもんねーよと言うつもりは毛頭ありませんが、何度も 「と思われる」 とか 「~と仮定すると」 とか挟みたくなる理由のひとつは、情報の偏向性みたいなものを疑っているからかも知れません。
私はリアルタイムで炎上騒動を追いかけた事はありませんし、幸いにも自分が火だるまになった事もありません。私が知っている炎上騒動というのは誰かのまとめた物 (っていうかtogetterのまとめ) でしかありませんのでそれはあくまで (恐らくこれまでも度々誰かが疑ってきたように) 「誰かがまるで大炎上であるかのように編集した情報」 なんじゃないかと思っている節があります。
だとしても割とそれは実はどうでもいい事で、その辺を火種にしてどんどん人類の虐殺器官が目覚めていって、世界は大災禍を迎え、結果やっぱり ”ハーモニー” の世界に、思いやり社会に突入しちゃったりするんじゃねーかなとか空想しています。
2014年。SF作家の描いた未来は着実にすぐそこまで迫って来ている!
と思っておくと、年始の慌ただしさも楽しく乗り切れそうです。